石川県のモノづくり産業の系譜
はじめに
石川県には、悠久の歴史の中で育まれ、現代へと脈々と受け継がれる「ものづくりの魂」が息づいています。
加賀藩の時代には、武具修理から始まった「御細工所(おさいくしょ)」が、加賀友禅、輪島漆器、九谷焼など、全国に名を馳せる多様な伝統工芸を大きく開花させました。
明治時代に入ると、石川県は近代工業の幕開けを迎え、繊維工業がその中心となります。全国有数の規模を誇る製糸会社が設立され、さらには画期的な力織機(りきしょっき)が開発され、現在の津田駒工業の礎を築きました。また、現在のコマツへと繋がる鉄工所が設立されるなど、機械工業の源流もこの時代に生まれました。
大正から昭和にかけては、繊維産業のさらなる発展と共に、建設機械、食品機械、チェーン製造など、多彩な企業が創業し、産業の多様化が進みました。
戦後の高度経済成長期には、産業構造が大きく変貌します。昭和35年には出荷額で鉄工が繊維を上回るようになり、建設機械、工作機械、そして電子工業が急速に成長。世界初のエアジェットルームの開発(津田駒工業)や、現在のPFUとなる電子工業の設立など、革新的な技術が次々と誕生しました。
今日、石川県は、ブルドーザーから最新の織機、医療機器、産業用ロボット、パソコン周辺機器に至るまで、国内はもちろん世界市場で圧倒的なシェアを誇る「オンリーワン」の技術と製品を数多く生み出す「ものづくり県」へと発展を遂げています。
本記事では、伝統工芸が培った匠の技から始まり、近代産業の波を乗り越え、なぜ石川県がこれほどまでに多様で、独自の技術を生み出し続けてきたのか、その知られざるものづくりの歴史と進化の軌跡を紐解いていきます。
平安末期〜
- 鋳物文化の歴史は中世以前にまで遡る -

能登中居鋳物
能登中居鋳物(のとなかいいもの)は、平安時代から大正末期までの約800年間、現在の石川県穴水町の中居地区で栄えた鋳物産業です。塩釜の鋳物が有名で、製塩業の必需品として長い間作られました。その後、中居鋳物は武器や包丁などの生活用品にも広がりましたが、大正13年の梵鐘(ぼんしょう)の鋳造(ちゅうぞう)を最後に廃絶となりました。
穴水町の「能登中居鋳物館」には、現在では途絶えてしまった中居鋳物の歴史をはじめ、鋳物文化を伝承する貴重な品々が多数展示されています。

藩政時代
- 加賀藩の文化政策が工芸を大きく開花 -

加賀藩御細工所
(かがはんおさいくしょ)
藩政時代における石川県の産業は、主に加賀藩の文化政策によって工芸が大きく発展したことが特徴です。とくに御細工所(おさいくしょ)がその大きな役割を果たしました。当初は武具や武器を修理する施設でしたが、3代藩主前田利常(まえだとしつね)は、前田家の大名調度品(だいみょうちょうどひん)の製作や修理を行う工業工房へと転換させました。また、地元の職人だけでなく、高度な技術を持った名工を京都や江戸から招聘(しょうへい)されました。
主要な工芸品と産業
加賀象嵌(かがぞうがん)
2代藩主の利長が京都より後藤琢乗(ごとうたくじょう)を招き開発したのが起源であり、加賀象嵌(かがぞうがん)の鎧(よろい)は天下の名品とされています。
加賀友禅(かがゆうぜん)
古くから加賀染が存在していましたが、1712年に宮崎友禅斎(みやざきゆうぜんさい)が京都から招聘されたことで飛躍的に発展しました。
輪島漆器(わじましっき)
起源は諸説ありますが、1476年には塗師がいたことが判明しており、沈金(ちんきん)は輪島独自の技法です。
山中漆器(やまなかしっき)
16世紀後半に越前の国から木地師の集団が移住してきたのが始まりで、当時は白生地のままの挽物(ひきもの)が主でした。
金沢漆器(かなざわしっき)
3代藩主の利常が高台寺蒔絵(こうだいじまきえ)の巨匠である五十嵐道甫(いがらしどうほ)を細工所の指導者として招き、技法を伝授させました。
九谷焼(くたにやき)
大聖寺藩主の前田利治(3代利常の三男)の命により、有田で製陶(せいとう)を学んだ後藤才次郎が九谷村で窯を築いたのが始まりです。
加賀絹(かがぎぬ)
平安時代の朝廷の記録に、加賀が絹の産出国(産地は小松・大聖寺)とあるほど古くから存在し、江戸時代には絹問屋が京都や江戸に販売していました。
中居鋳物(なかい いもの)
1055年の「堤中納言物語(つつみちゅうなごんものがたり)」に記述が見られ、鋤(すき)、鍋(なべ)、釜(かま)、灯簞(とうだん)、梵鐘(ぼんしょう)なども製造されましたが、メインは塩釜(しおがま)でした。
明治初期
- 近代工業の始まりは繊維工業から -

繊維工業
この時代が近代工業の始まりと位置づけられています。殖産興業や士族の授産として繊維工業が取り組まれました。長谷川準也(はせがわじゅんや)が設立に関わった金沢製糸会社(全国2位の規模)や金沢撚糸会社 が設立され、工場制工業化が進められました。
繊維機械
津田吉之助(つだきちのすけ)が金沢製糸・撚糸会社の機械設備を担当しました。その息子である津田米次郎(つだよねじろう)は15歳で動力織機発明の必要性を力説されたことを聞き、力織機(りきしょっき)開発を決意しました。明治13年には木綿用力織機の試作に成功しています。
その他
勧業試験場(後の工業試験場)が設立されました。金沢工業学校(後の県立工業高校)も設立され、金沢商工会も設立されました。水登勇太郎(みずとゆうたろう)は機業家としても活躍し、津田米次郎(つだよねじろう)を支援しました。
明治後期
- 機械工業の勃発・二つの源流 -

繊維工業
輸出羽二重(ゆしゅつはぶたえ)の生産が拡大し、大量生産、低コスト均質化が進みました。湿潤な気候が絹織物に適していたことも背景にあります。石川県は輸出羽二重で全国生産量の30%を占めるまでに著しい発展を遂げました。これに伴い、産元商社(さんげんしょうしゃ)が出現しました。
繊維機械
津田米次郎が羽二重用の力織機を開発しました 。その後、絹布力織機((きぬぶりくしょっき)も生産を開始しました 。津田駒次郎(つだこまじろう)(※米次郎のいとこの子)も織機製造を開始し、これが津田駒工業の前身となります 。
建設機械
竹内明太郎(たけうちめいたろう)が遊泉寺銅山(ゆうせんじどうざん)を経営し、鉱山機械の修理・製作を行う工場を設置しました。これが小松製作所の前身となる小松鉄工所です。
その他
漆器生地師(しっききじし)の希家熊吉(のぞみやくまきち)が轆轆挽き(ろくろひき)技術を活かして木製の自転車用リム生産を開始しました(後の大同工業の前身)。輸出九谷の産地規模も大幅に拡大しました。
大正時代
- 繊維と工業の発展と多彩な織機メーカーの創業 -

繊維工業
繊維工業は加賀地区だけでなく能登地区にも発展しました。染色・整理等の関連業界も発展しました。倉庫精練、小松精練などが創業しました。
繊維機械
この時代に多彩な織機メーカーが創業しました。津田米次郎の息子、機三が津田製作所(後の北陸機械)を設立しました。直山与二は紡織機械(ぼうしょくきかい)技術を習得し、石井鉄工所(後の石川製作所)を設立しました。
建設機械
遊泉寺銅山(ゆうせんじどうざん)が閉鎖され、竹内鉱業より小松鉄工所が分離独立し、小松製作所が設立されました。プレス機械、工作機械を生産し、見習生養成所も設けられました。
その他
工業試験場が設立されました。新家自転車製造(あらやじてんしゃせいぞう)が設立され、金属製リム製造を開始しました。熊吉は加賀連鎖製造も設立し、チェーン製造を開始しました。髙井兄弟商会(豆腐製造機械、現在の高井製作所)が設立されました。美川ボデーは木造船からトラックボディ製造に転換しました。
昭和初期
- 経済不況(昭和恐慌) -

繊維工業
この時代は経済不況の中で、織物から人絹(人造絹糸=レーヨン)織物への転換が進みました。産元が主導する産元系列化(垂直分業システム)が構築されました。
繊維機械
石井鉄工所は(株)石川製作所に改称され、戦時中は海軍の軍需工場として機雷生産を行いました。津田駒次郎工場は津田駒工業(株)に改称され、津田製作所は北陸機械工業と改称し、工作機械製造も行いました。
建設機械
小松製作所は農業用トラクターの開発を進め、粟津工場を設立して農業用・鉱山用・軍用機械を生産しました。
その他
澁谷商店(後の澁谷工業)が設立され、醸造機械(じょうぞうきかい)の製造を開始しました。現大同工業(株)は国益チェーン(株)から大同チェン(株)に改称し、軍需産業化しました。大日特殊工作所(現在の大日製作所)や金沢航空工業(後の金産自動車) も設立され、軍需産業に関わりました。
昭和20年代
- 戦後の復興から朝鮮戦争特需へ -

繊維工業
戦後の復興期を経て、朝鮮戦争の特需により、繊維工業の輸出が飛躍的に増大しました(ガチャマン景気)。しかし、供給能力過剰に対応するため、設備の登録制度が発足しました 。
繊維機械
中村留男(なかむらとめお)が津田駒工業を退社し、後の中村留精密工業(なかむらとめせいみつこうぎょう)となる中村鉄工所を設立しました。創業当初は津田駒工業(つだこまこうぎょう)などの下請けでした。高松喜一(たかまつきいち)が高松鉄工所(後の高松機械工業)を創業し、北陸機械工業の織機部品製造を行いました。
建設機械
小松製作所は国産ブルドーザーの原型「小松1型均土機」や「D50ブルドーザー」を製作しました。この時期、本社を小松から東京へ移転しました。
その他
澁谷商店は澁谷工業に改組しました。月星製作所、オリエンタルチェーン、荷役運搬機械製造の北商(ほくしょう)、業務用食品加工機器のアサヒ装設など、様々な企業が設立されました。中小企業庁や信用保証協会が設置され、中小企業を支援する体制が整備されました。
昭和30年代〜40年代
- 高度経済成長 -

繊維工業
高度経済成長期に入り、合成繊維織物(ごうせいせんいおりもの)への転換が促進され、繊維工業は急成長を遂げました。産元系列単位で機屋(8台機屋など)が増加し、中能登、奥能登地区へも発展しました。大手原糸メーカーによる系列化が激化し、産元商社は産地代理店化が進みました。
繊維機械
織機のオートメーション化が進み、津田駒工業がシャトルの自動交換機を開発しました 。津田駒工業は国産初のレピアルームの開発にも成功しました 。一部の繊維機械メーカーは下請けから独立し、工作機械分野へ進出しました。
建設機械
国土開発により、小松製作所が急成長を遂げました。
工作機械
繊維機械の下請け企業などが工作機械分野へ進出し、中村留精密工業(なかむらとめせいみつこうぎょう)などが工作機械メーカーとしての地位を確立しました。高松機械工業(株)も設立されました。
電子工業
ウノケ電子工業(PFUの前身)が設立され、小型コンピューター開発が始まりました。現EIZO(エイゾー)の前身である羽咋電気(後にナナオに改称)が創業しました。
その他
昭和35年には製造品出荷額で鉄工が繊維を上回り、産業構造の変化が明確になりました。協力工場による集団化(鉄工団地)が進みました。小松ウォール工業やコマニー(旧小松キャビネット)が創業しました。澁谷工業はボトリングシステム1号機を開発しました。石野製作所も創業しました。金産自動車工業(きんさんじどうしゃこうぎょう)は合併し、日野車体工業となりました。
昭和50年代〜60年代
- 円高と石油危機を乗り越え安定成長 -

繊維工業
ウォータージェットルームやエアジェットルームといった織機の技術革新が進みました。これにより、繊維工業は労働集約的産業から装置産業化へと変化しました。しかし、石川県の織物生産量は昭和56年(1981年)にピークを迎え、海外との競争も激化しました。
繊維機械
津田駒工業(つだこまこうぎょう)はウォータージェットルーム、そして世界初のエアジェットルームを開発しました 。昭和51年、北陸機械工業は倒産することになります。
建設機械
小松製作所はブラジルでの初の海外生産を皮切りに、オーストラリア、インドネシア、アメリカ、英国、ドイツなど、海外展開を加速させました。
工作機械
澁谷工業は環境・医療分野(人工透析器、細胞培養システムなど)にも進出しました。
電子工業
アイ・オー・データ機器が設立され、周辺分野の研究開発に注力しました。オンライン織布工場管理システムやパソコン用増設メモリーボードなどが開発販売されました。PFUはパナファコムと合併して改称しました。
その他
先端産業の誘致が積極的に行われ、北陸日本電気ソフトウェア、東レ、金沢村田製作所、松下電器、加賀東芝エレクトロニクスなどが誘致(ゆうち)されました。
平成時代
- バブル崩壊、失われた20年 -

繊維工業
バブル崩壊を経て、大手原糸メーカー系列の崩壊や産元商社の倒産・廃業といった厳しい状況に直面しました。これに対応するため、高付加価値化、差別化、高機能化、そして非衣料分野への展開が大きな課題となりました。産業構造の推移を見ると、昭和40年度から平成24年度にかけて繊維産業の製造品出荷額等の構成比が約1/4に低下しました。
繊維機械
津田駒工業(つだこまこうぎょう)は工作用機器の新工場(野々市工場)を竣工しました。
建設機械
小松製作所は中国での生産展開を積極化し、コマツ金沢工場を生産開始しました。建設機械を中心とする一般機械の伸びが大きい傾向が見られます。
工作機械
石川製作所は半導体関連分野や環境・医療分野に進出しました。澁谷工業は環境・医療分野(人工透析器、細胞培養システムなど)にも進出しました。
電子工業
富士通(ふじつう)とPFUの共同出資で富士通ITプロダクツが設立され、スーパーコンピューター「京」の拠点となりました。
その他
ソニー根上やNTN、日本ガイシなどが誘致されました。情報通信、電子部品などの電気関係の伸びが大きく、これは企業誘致(きぎょうゆうち)による寄与が大きいとされています。
【付録】石川県の産業(工業)構造の変遷
- 石川県の産業構造はここ数十年で大きく変化 -
県全体の産業構造では、二次産業のウェイトが約3/4を占め、特に機械工業のウェイトが約1.8倍に増加しました。また、誘致企業の製造品出荷額のウェイトは県全体の25%を占めるまでになりました。

工業構造で見ると、昭和40年度から平成24年度の47年間で、繊維産業のウェイトは約1/4に、一方の機械工業のウェイトは約1.8倍となりました。近年は、建設機械、工作機械を中心とする一般機械と、情報通信、電子部品などの電気関係が著しく伸びています。電気関係の伸びは、企業誘致による影響が大きいと考えられます。

【付録】石川県のシェアトップ企業
- オンリーワン技術で国内シェアトップを誇る企業数は全国3位 -
厳しい環境変化の中で、石川県にはオンリーワン技術を持つ国内シェアトップ企業が全国3位の数存在し、プリンター用インクリボン(カジレーネ)、競輪用自転車リム(新家工業山中工場)、超小型チェーン(オリエンタルチェーン工業)、ジェットルーム(津田駒工業)、日本酒ラベル(高桑美術印刷)1など、特定のニッチ分野で高いシェアを持つ企業が複数存在します。
企業名 | 生産品目 | シェア |
---|---|---|
池田機業(株) | 紳士用スーツ袖裏 | 30% |
カジレーネ(株) | プリンター用インクリボン | 60% |
創和丁キスタイル(株) | 産業衣料生地 | 42% |
(株)明石合銅 | バイメタル・シリンダーブロック | 90% |
アサヒ装設(株) | 業務用食品加工機器 | 70% |
新家工業(株)山中工場 | 競輪用自転車リム | 100% |
アール・ビー・コントロールズ(株) | 電子点火装置 地上デジタル浴室テレビ | 60% 40% |
(株)江沼チェーン製作所 | 農機具用チェーン | 80% |
オリエンタルチェーン工業(株) | 超小型チェーン | 100% |
クマリフト(株) | ダムウェーター(小荷物専用昇降機) | 50% |
ジェイ・バス(株) | 大型観光バスボディ | 64% |
(株)小松製作所 | ブルドーザー 大型プレス機械 | 60% 40〜50% |
澁谷工業(株) | ビン詰め機械 | 60% |
昭和精工(株) | CNCドリルマシン(平鋼材用) | 60〜70% |
大同工業(株) | オートバイ用ドライブチェーン | 55% |
(株)高井製作所 | 豆腐・油揚げ製造機械 | 30% |
(株)月星製作所 | オートバイ用スポーク | 90% |
津田駒工業(株) | 織機(ジェットルーム) | 70% |
(株)東振精機 | 軸受組込み用球面ころ | 80% |
中村留精密工業(株) | 自動レンズ芯とり機 | 30〜40% |
(株)ニッポー技研 | 門型ノーブラシ洗車機 | 90% |
(株)白山エレックス | 通信用保安器 | 45% |
(株)BBS金明 | ウェハーエッジポリッシングマシーン | 世界90% |
(株)富士精工本社 | 金庫室用大型扉 | 50% |
ホクショー(株) | 垂直搬送機 | 40% |
明和工業(株) | 農業施設用湿式集塵装置 | 90% |
森長電子(株) | 高性能避雷器(電源ライン用) | 20% |
(株)アイ・オー・データ機器 | パソコン用モニター | 30% |
(株)アクトリー | 産業廃棄物等の処理装置 | 15〜30% |
(株)石野製作所 | 回転寿司コンベア機 | 60〜70% |
金沢車輛(株) | 手押しサービスワゴン | 90%〜 |
(株)金沢村田製作所 | 表面波フィルター | 世界45% |
小松ウォール工業(株) コマニー(株) | パーティション | 40〜50% |
高桑美術印刷(株) | 日本酒ラベル | 20% |
(株)谷口 | 木製碁笥 | 75% |
玉田工業(株) | 石油貯蔵地下タンク | 75%以上 |
(株)PFU | 業務用イメージスキャナ | 68% |
(株)ビルドス | 耐火性三次元ハニカム材 | 100% |
※2024年現在
まとめ
本記事では、石川県のモノづくり産業の系譜を産業別に見てきました。
総じて、石川県の産業は、歴史的に繊維工業が基幹産業として発展してきましたが、昭和30年代以降は機械工業や電子工業が台頭し、とくに近年はこれらの産業の伸びが顕著となっています。
さらに、先端産業の企業誘致もこれらを加速させている大きな要因となっています。
これらの歴史的背景と地理的要因が組み合わさり、石川県は多様な産業集積と技術力の高さを確立してきました。
どちらかと言えば、観光都市や文化都市のイメージが強い石川県ですが、これらの高い技術力で育まれた「モノづくり立県」としての顔も忘れてはいけませんね。
本記事が、石川県の伝統産業や知られざる魅力を再発見いただく機会になれば幸いです。
