石川県のモノづくり産業に係る出来事

明治初期

明治7年

長谷川準也が製糸会社を設立

元加賀藩士の長谷川準也(1843-1907)が金沢製糸会社(全国2位の規模)を設立しました。

長谷川準也は尾山神社の神門の建設にも尽力し、第2代の金沢市長も務めました。

明治10年

長谷川準也が撚糸会社を設立

明治10年、長谷川準也が金沢に撚糸会社も設立しました。殖産興業、士族の授産、工場制工業化を進めました。加賀藩御細工所の宮大工であった津田吉之助(1827-1890)が、金沢製糸・撚糸会社の機械設備を担当しました。

明治10年

力織機開発を決意

当時15歳の津田米次郎が、父吉之助とともに金沢撚糸会社の開業式典に出席し、動力織機発明の必要性を力説され、力織機(りきしょっき)開発を決意しました。

明治13年

木綿用力織機の試作に成功

津田米次郎が木綿用力織機の試作に成功しました。

明治20年

金沢工業学校が設立

金沢工業学校が設立されました(現在の県立工業高校の前身)。

明治20年

金沢商工会が設立

金沢商工会が設立されました(金沢商工会議所の前身)。

金沢商工会の創立に尽力した水登勇太郎氏は、2度会頭を務めるなど金沢の商工業の発展に尽力しました。明治39年頃から機業家としても活躍し、津田米次郎を支援しました。

明治後期

繊維工業が著しく発展

繊維工業は著しい発展を遂げ、輸出羽二重(はぶたえ)の生産が拡大しました。輸出羽二重は全国生産量の30%を占めるに至りました。

明治33年

羽二重用の力織機を開発

津田米次郎が羽二重用の力織機を開発しました。

明治35年

竹内鉱業小松鉄工所を設置

竹内明太郎が高知県から遊泉寺銅山(小松)を経営し、鉱山機械の修理・製作を行う工場(竹内鉱業小松鉄工所)を設置しました。

竹内明太郎氏の父は土佐藩の竹内鋼で、末弟は吉田茂でした。明治41年に早稲田大学理工学部を設立しました。また、快進社(現在の日産自動車)の支援メンバー(DATSUN)の一員でもありました。DATSUN(ダットサン)のTは竹内のTからとったものです。

明治36年

木製の自転車用リム生産開始

漆器生地師の希家熊吉が轆轤挽き技術を活かして木製の自転車用リム生産を開始しました(大同工業の前身)。

明治38年

絹布力織機の生産を開始

津田米次郎が松尾工場(東京)で絹布力織機の生産を開始しました。

明治39年

水登勇太郎が機業家として活躍

明治39年頃から水登勇太郎が機業家としても活躍し、津田米次郎を支援しました。

明治41年

竹内明太郎が快進社の支援を開始

竹内明太郎が橋本増治郎が創立した快進社(日産自動車の前身)の支援メンバーとなりました。

明治42年

津田駒次郎工場を開設

津田駒次郎が織機製造の工場(津田駒次郎工場)を開設し、これが現在の津田駒工業の前身となりました。

大正時代

大正3年

倉庫精錬が設立

倉庫精練が設立されました。

大正6年

津田製作所が設立

津田米次郎の息子である機三が津田製作所を設立しました(北陸機械の前身)。

大正6年

高井兄弟商会が設立

高井兄弟商会(豆腐製造機械)が設立されました(現在の高井製作所)。

創業者の高井亀治郎は金沢で豆腐屋を営業していましたが、重労働だった大豆の粉砕を省力化するため、ロール式大豆粉砕装置を開発しました。全国の豆腐屋の名簿を作り、ダイレクトメールで販促したとされています。

大正7年

小松精錬が設立

小松精練(現小松マテーレ)が設立されました。

大正7年

工業試験場が設立

工業試験場が設立されました。

大正8年

新家自転車製造が設立

新家自転車製造(株)が設立され、金属製リムの製造を行いました。

大正9年

遊泉寺銅山が閉鎖

遊泉寺銅山が閉鎖されました。

大正9年

加賀連鎖製造が設立

希家熊吉が加賀連鎖製造も設立し、チェーン製造を開始しました。

大正10年

石川鉄工所が設立

直山与二が石井鉄工所を設立しました(石川製作所の前身)。

直山与二氏は若くして大阪の石井鉄工所で修行し、紡織機械の技術を習得しました。当初は籾摺機や脱穀機を生産。後に紡績機生産に大きく発展しました。

大正10年

小松製作所が設立

竹内鉱業(株)より小松鉄工所が分離独立し、小松製作所が設立されました

大正13年

美川ボデーが設立

美川ボデーが設立され、木造船製造からトラックボディ製造へと転換しました。

昭和初期

昭和3年

石川製作所に改称

石井鉄工所が森本工場完成を機に(株)石川製作所と改称されました。

昭和6年

澁谷商店が設立

澁谷商店が設立されました(醸造かまどや洗米機などを製造、澁谷工業の前身)。

澁谷商店の創業者である澁谷庚子智氏は大手酒造メーカーの営業マンでしたが、北陸の酒造メーカーの勧めで独立しました。当初は醸造かまどや洗米機を制作しました。昭和20年代後半から瓶詰機や瓶洗機などの生産を開始しました。

昭和10年

大同チェンが設立

中小チェーンメーカーを吸収し、大同チェン(株)が設立されました。

昭和12年

小松製作所が工作用機器事業を開始

小松製作所が工作用機器事業を開始しました。

昭和12年

小松製作所がT25トラクタの開発開始

小松製作所が農業用トラクター(T25トラクタ)の開発を開始しました。

昭和12年

室戸鉄工が設立

室戸鉄工が設立されました。

昭和12年

大日特殊工 作所が設立

大日特殊工 作所(現在の大日製作所)が設立されました。

昭和13年

小松製作所粟津工場が開設

小松製作所粟津工場が開設されました。

昭和13年

大同チェンが大同工業に改称

大同チェン(株)が大同工業(株)に改称されました。

昭和14年

小松高田製作所が設立

小松高田製作所が設立されました。

昭和14年

津田駒次郎工場が津田駒工業に改称

津田駒次郎工場が津田駒工業(株)に改称されました。

昭和17年

金沢航空工業が設立

金沢航空工業が設立され、軍需産業として尾翼生産を行いました(後の金産自動車の前身)。

昭和18年

「小松1型均土機」を製作

国産ブルドーザーの原型「小松1型均土機」が製作されました。

昭和18年

津田製作所が北陸機械工業に改称

津田製作所が北陸機械工業と改称され、工作機械(旋盤フライス盤)の製造を開始しました。

昭和20年代

昭和20年

金沢航空産業が金沢産業に改称

金沢航空産業が金沢産業に改称され、バスボディの製造に転換しました。

昭和22年

「D50ブルドーザー」1号機が完成

小松製作所の「D50ブルドーザー」1号機が完成しました。

昭和22年

月星製作所が設立

月星製作所が設立されました。

昭和22年

オリエンタルチェーンが設立

オリエンタルチェーンが設立されました。

昭和23年

高松鉄工所が創業

高松喜一が高松鉄工所を創業しました(後の高松機械工業)。

昭和24年

中村鉄工所が創業

中村留男が中村鉄工所を創業しました(後の中村留精密工業)。

中村留男は元津田駒工業の社員で、退職後中村鉄工所を立ち上げました。創業当初の社員は夫婦二人のみだったそうです。

昭和24年

澁谷商店が澁谷工業に改組

澁谷商店が澁谷工業に改組されました。

昭和25年

山口鉄工所が設立

山口鉄工所が設立されました。

昭和26年

小松製作所の本社を東京に移転

小松製作所の本社が小松から東京へ移転しました。

昭和27年

供給能力過剰設備の登録制度が発足

供給能力過剰設備の登録制度が発足しました。

昭和27年

北商が設立

北商が設立されました。

昭和28年

アサヒ装設が設立

アサヒ装設が設立されました。

昭和30年代〜40年代

昭和30年

北商が荷役運搬機械の製造を開始

北商が荷役運搬機械の製造を開始しました。

昭和31年

津田駒工業がシャトル自動交換機を開発

津田駒工業がシャトル自動交換機を開発しました。

昭和32年

山口鉄工所が共和工業所に改組

山口鉄工所が共和工業所に改組されました。

昭和34年

石野製作所が創業

回転寿司コンベアなどを手掛ける石野製作所が創業しました。

昭和34年

澁谷工業がボトリングシステムを開発

澁谷工業が各工程の機械を一体化したボトリングシステムの開発に成功しました。

昭和35年

高松機械工業が設立

高松機械工業(株)が設立されました。

昭和35年

中村留精密工業が設立

中村留精密工業(株)が設立されました。

昭和35年

ウノケ電子工業が設立

PFUの前身であるウノケ電子工業が設立されました。

宇ノ気の歯科医師であった深江溢郎氏が地元出身の技術者である竹内繁氏(東大卒・日立製作所勤務)を説得し共同で設立しました。

昭和35年

出荷額で鉄工が繊維を上回る

石川県の産業別出荷額で鉄工が繊維を上回りました。

昭和36年

小松キャビネットが創業

小松キャビネットが創業しました(現コマニー)。

昭和38年

小松鋼機が設立

小松鋼機が設立されました。

昭和42年

津田駒工業がレピアルームを開発

津田駒工業が国産初のレピアルームの開発に成功しました。

昭和43年

羽咋電気が創業

羽咋電気(後のナナオ・現EIZO)が創業しました。

昭和43年

小松ウォール工業が創業

小松ウォール工業が創業しました。

昭和44年

ウノケ電子工業をユーザック電子工業に改称

ウノケ電子工業をユーザック電子工業に改称しました。

昭和46年

石川県鉄工団地が形成

協力工場による集団化が進み、石川県鉄工団地が形成されました。

昭和47年

板尾鉄工所が設立

板尾鉄工所が設立されました。

昭和48年

羽咋電気がナナオに商号変更

羽咋電気がナナオ(現EIZO)に商号変更しました。

昭和50年代〜60年代

昭和50年

金産自動車工業が帝国自動車工業と合併

金産自動車工業が帝国自動車工業(横浜)と合併し、日野車体工業となりました。

昭和50年

津田駒工業がウォータージェットルームを開発

津田駒工業ウォータージェットルームを開発しました。

昭和50年

小松ブラジルで海外生産機が完成

小松ブラジルで初の海外生産機が完成しました。

昭和51年

アイ・オー・データ機器が設立

アイ・オー・データ機器が設立されました。

現社長の細野昭雄氏が県立工業高校卒業後、ウノケ電子工業、金沢工業大学、小松バンテックで修行を続けた後、31歳の若さで会社を設立しました。アイ・オー・データ機器のアイ・オーはインプット・アウトプットの頭文字(I/O)からとったものです。

昭和51年

北陸機械工業が倒産

北陸機械工業が倒産しました。

昭和52年

津田駒工業がエアジェットルームを開発

津田駒工業エアジェットルームを世界で初めて開発しました。

昭和54年

小松オーストラリアが設立

小松オーストラリアが設立されました。

昭和54年

オンライン織布工場管理システムが販売

オンライン織布工場管理システムが販売されました。

昭和57年

小松インドネシアが設立

小松インドネシアが設立されました。

昭和57年

先端産業誘致条例が制定

先端産業誘致条例(10億円条例)が制定されました。

昭和59年

アイ・オー・データ機器がパソコン用増設メモリーボードを開発

アイ・オー・データ機器がパソコン用増設メモリーボードを開発・販売しました。

昭和59年

東レが誘致

東レが石川県に誘致されました。

昭和59年

金沢村田製作所が誘致

金沢村田製作所が石川県に誘致されました。

昭和59年

松下電器が誘致

松下電器(現ジャパンディスプレイ)が石川県に誘致されました。

昭和60年

小松アメリカインダストリーズが設立

小松アメリカインダストリーズが設立されました。

昭和60年

加賀東芝エレクトロニクスが誘致

加賀東芝エレクトロニクスが誘致されました。

昭和61年

英国小松が設立

英国小松が設立されました。

昭和61年

小松インダストリーズヨーロッパが設立

ドイツに小松インダストリーズヨーロッパが設立されました。

昭和62年

PFUがパナファコムと合併

PFUがパナファコムと合併し、PFUに改称されました。

昭和63年

北陸日本電気ソフトウェアが誘致

北陸日本電気ソフトウェアが誘致されました。

平成時代

平成2年

ソニー根上が誘致

ソニー根上が誘致されました。

平成3年

津田駒工業野々市工場が竣工

津田駒工業野々市工場が竣工しました(工作用織機新工場)。

平成7年

石川製作所が超音波骨量測定装置を開発

石川製作所が超音波骨量測定装置を開発しました。

平成7年

小松常林建機公司が設立

小松常林建機公司が設立され、積極的な中国生産展開を開始しました。

平成11年

石川製作所が高速微小チップ外観検査装置を開発

石川製作所が高速微小チップ外観検査装置を開発しました。

平成14年

富士通ITプロダクツが設立

富士通とPFUの共同出資により富士通ITプロダクツが設立されました(スーパーコンピューター「京」の拠点工場)。

平成18年

羽咋製作所が設立

羽咋製作所が設立されました。

平成19年

コマツ金沢工場での生産が開始

コマツ金沢工場での生産が開始されました。

平成19年

宝達志水製作所が設立

宝達志水製作所が設立されました。

平成20年

日本ガイシが誘致

日本ガイシが誘致されました。

平成21年

志賀製作所が設立

志賀製作所が設立されました。

平成22年

能登製作所が設立

能登製作所が設立されました。

平成23年

小松市に「こまつの杜」が誕生

コマツ発祥の地である小松市に「こまつの杜」が誕生しました。